プラダを着た5歳児

プラダを着た5歳児

ゲーム会社・IT企業を経て社会から静かにフェードアウト。精神年齢5歳児の人が綴るブログ。

ねこがしんじゃった時のはなし

2021.12.06
1日〜2日にかけて、この時の猫に対する気持ちを出来るだけ忠実に残そうと思って、その都度感じた事をメモしたものをより近しい表現に直しつつ繋げました。

2021/12/01の正午過ぎ、飼い猫が急死した。目が大きくて毛並みはふわふわで、初めて写真を見た時は『ライオンみたいだな』と思った。飼い主にはよく甘えてきたが、その風貌の反面、知らない人が来れば一目散に逃げ、病院に連れていくのも憚られる程臆病な子だった。それでも最近年齢のこともあり、調子も悪そうだったので1度診てもらうことにしたのだ。

しかし前述の通り元々異常なくらい臆病で神経質な子であったので、今回の病院での治療のストレスで容態が急変し、蘇生処置もむなしくそのまま息を引き取った。11歳だった。後で分かったことだが、気管支に腫瘍があり、それが気道を圧迫していたようだった。

正午過ぎ、病院の診察台にぬいぐるみのようにぐったり横たわって動かないこの子を見た時涙が溢れてきた。
(おもちゃじゃないんだぞ、病院に連れてきたのに、どうしてこうなったの?)
それでも体はまだ温かくいつも通りフワフワなままそこにあって、死んでしまった実感がイマイチ無いまま今に至る。明日も明後日も無意識にこの子を探してしまいそうだ。

夢で終わればいいのに。苦しかったね。怖い思いをさせてごめんね。朝は『ニャーニャー』鳴いていたのに、今日が最後の日になるなんて思ってなかったよね。

2021/12/02
家の中はどこもかしこも猫のテリトリーだった。朝リビングに行けばそこにちょこんと座っているし、玄関で日向ぼっこしているし、洗濯物を畳めばタオルの上に座っているし。私がうつ伏せで転がっていれば背中に乗ってきて、喉をゴロゴロ鳴らしながら甘えてくる。昨日もそうだった。

家中の至る所が、そういう当時の思い出を運んでくる。でも今ではいくら探してもそこに猫の姿はない。気配だけがある。気配だけ残していなくなった。

その日朝起きると、いつも通り猫がリビングにちょこんと座っていて、私の方をじっと見ていた。
まさか亡骸になって帰ってくるなんて。生き物はゆっくり静かに死んでいくものだと思っていたのに。あっけない死だった。病院嫌いのこの子の為に買った新しいキャリーバッグ、行きの一度使ったきりで終わってしまった。

翌日は猫の亡骸の隣で、(途中横になったりしつつ)生前の姿を描きながら正午まで過ごした。『いい子、いい子』となでると既に体が硬くなっていたのを感じたが、猫の頭から手を離すと耳はピーンと跳ね返った。お別れするために実家に帰って来た姉は猫の頭を撫でながら

『生きてるみたいだね、うちに来てくれてありがとうね、子供の面倒も嫌だったろうに見てくれてありがとうね』

と泣きながら、

『この子は野良のままでは生きていけない子だったと思うから、あんたの後を付いて回れて幸せだったと思うよ』

と言った。

『いつまでも撫でてたら帰れなくなっちゃうねぇ』

と、最後に猫をひと撫でして帰って行った。

抜け殻のようになった体は棺がわりのAmazonダンボールに入れてあったが、そこに好きだったチュールやおもちゃ、花も一緒に入れてやり午後2時に地元のペット霊園で火葬してもらった。おもちゃには私の匂いを付けたけど、あいつは鼻が馬鹿だったから、後になって私のハンカチでも体にかけてやれば良かったと洗濯物を畳みながら後悔した。母は

『体の下にはよく猫が座っていた毛布を敷いてやった。家にいるのと同じだよ』

と言った。

1時間後、小さな骨壷に収まってしまった愛猫を前に私はセオリー通り泣きつつも、実は、まだ猫がそばにいるような感覚が抜けず、気持ちの半分はこの現実を受け入れられないままでいた。

『骨がしっかりしてますね』

と言われたが何も感じなかった。

帰宅後、コタツに入る時の自分の何気ない仕草に『あっ』と思った。わたしは普段からコタツに入った時の勢いでうっかりあの子を蹴飛ばしてしまわないように気を付けていたのだ。

でもこれからは猫に注意しながらコタツに入ることも
私の後を付いてくる猫を振り返って見る事も
そして猫がこのコップから水を飲むことも無くなる。

すぐそばにいたのに、もう撫でられない。
日常のふとした瞬間があの子に繋がって、確かにそこにいた事を感じさせる。
ふとした瞬間が喪失感に繋がって、その度に泣けてくる。

ふいに物音がして、反射的に猫を探してしまった。
足元に視線をやると食べかけのエサが残っていて、それを見たらまた涙が出てきた。f:id:soybeans01:20220325204630j:image

ipadに手を出した件、その後

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相変わらずのメンタル低空飛行状態が続いている。

朝起きてご飯を食べて筋トレして、なんとか掃除をこなして横になる。気力があれば絵を描く。

そんな毎日を過ごしながら、頭の片隅では『死にたい』という気持ちが疼いている。

 

先日、大枚はたいてipad proに手を出したのだけれど、初動が散々だった事は先日投稿した通り。

soybeans01.hatenablog.com

自分が期待した通りにipadを扱う事が出来なくて、19万をパァにしたと思い涙が出てきた。

 

これが発達障害由来なのかどうかは知らないし、定型あるあるなのかもしれないけど、私は環境や状況、予定が急に変わったりすると軽くパニックを起こす。それを回避するために仕事ではphotoshopや3dsMax,Maya,softimage XSIなど色んなツールを勉強し「いつ仕事が投げられてもOK」な、万全な状態にしようと努めていたのだけれど、まぁいくらツールが使えても、仕事が出来なきゃ意味ないわけで。

 

売り上げによっては緊急対応する事もあったので、急に差し込まれる業務に心臓をバクバクさせながら必死で対処していた。

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悲しい事に軽くパニックをおこしているので説明を聞き洩らすわ同じことを何度も聞き返すわで散々だった。多分周囲が。

兎に角、いつ変わるか分からないスケジュールに私は気が気がじゃなかった。

 

話を戻すと、ipad proをうまく使えないという不測の事態に直面した私はひどく落ち込み何も出来なくなってしまった。デスクトップPCではショートカットを使いまくり、カスタマイズして自分なりに手足のように使っていたので、操作感の全く違うタブレットに触れた時の違和感に混乱してしまったんだと思う。

 

「どうしよう、19万無駄にした。こんなに使えないんじゃ パソコンに戻るしかないよ」

 

って一人パニックに陥ってたんだけど、よくよく考えてみればphotoshopだって学生時代から何年もかけて、混乱しながら自分のペースで少しずつ習得していったわけで。

 

思えば入社後の研修だってそうだった。

私は昔から要領が悪くて、同期についていくのに必死だった。でも会社で研修してるだけじゃ全然追いつけなくて、家に帰ってからもこっそり勉強してた。これは何と言うか、周囲に後れを取って自分の“ダメさ加減”を悟られたくなかったのだ。

テスト前に「わたし全然勉強してないよ~」と言いながら実はこっそり勉強している人の心境と同じかもしれない。

とりあえず、人よりも時間をかけて初めてスタートラインに立てる、そういう人間なのだ、私は。

 

そんなもの覚えの悪い私がすぐに使いこなせるようになるわけないよなぁしばらく時間を置いて冷やした頭で考えていた。当面はデスクトップPCを主体に、iPad Proは少しずつ使うようにして慣らしていくのがベストかもしれない。だから暫くはLenovoワークステーションも併用するつもり。何年かかるかわからないけど、少しずつ操作を覚えていけたらいい。

と、自分に言い聞かせてみる。

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新作出来ました

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iPad Proに手を出した結果

先日注文した秘密道具が届いた。


photoshopの使用を見越して買ったのは12.9インチの1TB。ipadの中では最高スペック。…豚に真珠という言葉があるけど、その豚がついにこんなものにまで手を出してしまった。

Apple Pencilとペーパーライクの保護フィルムも併せて購入したので、大体19万くらい無職という身分の豚がこんな高価なものを購入してしまって今凄い後悔してる。

迷いに迷って色々考えた末のことだけど、私なんかが買ってよかったのかなぁ。

 

 
何に使うのかといえば、今のところ絵をチャチャっと描くくらいしか思いつかないんだけど・・・

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ipadで描いたらこの有様。


これさえあればいつでもどこでも描けるし、多機能だし、絵を描くたびに出る消しカスの処理も面倒だったし…なんて思って、ゆくゆくはコミックエッセイみたいなの展開できたらいいなーとか甘い事も考えてました

 

ところが蓋を開ければ凄まじい“これじゃない”感。

 

元々PCでショートカットじゃんじゃん使ってた人間なので、スムーズに描けないストレスが凄い。

こんな状態でいつか描ける様になるのでしょうか?

Lenovoワークステーションに戻りたいです(起動時にビープ音がするけど)。

 

 

ちなみに数ヶ月前にLenovoタブレットPCを買ったばかりだったりする。これは文章を書く為だけに買った、性能的にはそれほどでもない安物なんだけど、自分に文才がない事が分かってから部屋の片隅に埃をかぶった状態で放置されている。たまには使うけれども、勿体無い使い方をしている自覚はあって、我ながらバカな買い物をしたと思っている

スリープ状態にしたはずなのに完全に電源が落ちてたりするうんこみたいな仕様で(あれ?これって不良品?)起動に時間がかかるので、思い立った時にパパっとかけない事が結構ネックで…。それで「しまったな、多少高くてもipadにしておけばよかったな」とかずっと思っていたのです。

ずっとって、数か月の間だけだけど。

 

 

困ったなぁ…こんなに扱いづらいとは思わなかった。でもモトは取りたい。練習するか。

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解離性障害

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時々、意識だけが周りの空間からブツッと切り離されて、自分が今何をしていたのか、何故そこにいるのか分からなくなる事があった。次元が急にズレるというか、なんだかヴェールに覆われてる感じだ。

私は“こちら側”からみんなのいる“向こう側”の世界を呆然と見つめていた。それは学校とか、職場とか、兎に角人が大勢いる場所で起こる事が多かった。

言っておくけど、スピリチュアルがどうこういう話では無い。

夢から覚めた瞬間に似ていて、状況がまるで把握できない。別にうたた寝をしていたわけでは無くて、ただ普通に過ごしていただけなのに、突然周囲の空間から意識だけがズバッと切り離されるのだ。

ヴェールの向こう側には言葉を機械的に垂れ流す操り人形のような人達がいる。彼らが誰なのか、何故自分がここにいるのかも分からないものだから、本当に恐怖しかなかった。

そうなった時は、いつも自分の身の周りや環境をよく観察する事から始めた。どうやらここは教室らしいとか、私は今どんな格好をしているのかな?とか、そもそも服を着ているのかな、とか。

そうして置かれている状況を1つずつ確認していくうちに、切り離されていた自分と周囲のギャップが埋まっていき、ようやく元の世界に戻る事が出来る。そして安堵する。

 

「ああ、そうだ、わたしは会社にいたんだ。」

 

 

文字に起こすとなんじゃこりゃ?って感じだ。そもそもこの現象自体抽象的過ぎて長らく誰にも言えなかったんだけど、大学病院にかかっていた時に、思い切って先生に聞いてみた。自分の頭がおかしいと思ったからだ。しかし先生の答えは予想に反したものだった。

 

「あー、それは解離性障害ですね。ストレスから身を守る為にそういう事が起こるんです。」 

 

 

 

\(°Д° )/

 

解離性障害って虐待受けてなくてもなるの?

そんなご大層な。

…と思ったんだけど、地元の精神科の先生も同じ見解で、曰く「敏感な人がよくなる」との事だった。それを聞いて少し腑に落ちた。そういうものなんだね。わたしデリケートだしね。今は社会から離れているせいか、これが起こることはほぼ無くなった。

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「いいね」という承認

地道な投稿の甲斐あって最近はブログの1日のアクセス数100越えも珍しくなくなってきた。先日WWEの記事を投稿した時はアクセス数0という自己最低記録を更新し、どうしたものかと思ったけど。

 

ところで私はいま、複数のSNSを利用しているのだけど、正直使いこなせているとは言い難い。初めてTwitterに絵を載せた時は全然「いいね」をもらえなくて、いく日も経たない内に投稿を削除した。ちなみにそれ以降も絵をアップロードしたり消したりの独り相撲を繰り返している。『いいね』されてない事が、ネット上でもぼっちである現実を突きつけられているようで気になるのだ。

その一方で、100件も200件もいいねをもらっている落書きのようなイラストがTwitterには数多く存在する。これがどうも気に入らない。私の絵には魅力がないという事なのだろうか。

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よくよく見てみると、『いいね』をもらってる人達は

#絵師と繋がりたい

というハッシュタグでフォロワーをガンガン増やし、社交辞令形式でお互いにいいねを押しているようなのだ。なんかもう、この時点で面倒くさくなってきた。

 

そもそも「絵師」って何??『絵師』って画家とか、絵を本業にしている人の事じゃないの?趣味で描いている人に絵師を名乗られることに戸惑いを感じるのは私だけ?

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錯乱状態で耳を切り落とした絵師

しかしそんな私の思いとは裏腹にこの言葉は世の中に広く浸透し、今では『絵師』という言葉に安っぽさすら感じるようになってしまった・・・。

 

話をもどすと、仕事を辞めて暇を持て余していた私は、仕方なくフォロワーを増やしてみるとこにした。(でも元々人と繋がることに興味がないので、頑張ってもフォロワー25人にしかならなかったけど…。)そして絵描きアカウントのツイートにリプライやいいねを押してみた結果、私の絵に初めて『いいね』がついたのだった。

 

 

1いいね。

 

 

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絵を見てもらいたいという欲求があるので、相互フォローとかでフォロワーを増やしてどんどん展開するべきなんだろうけど、私自身相手に興味無いので、本音を言うとフォローも「いいね」もしたく無い…。でも社会ってそういうものなんだろうな。

 

「いいね」は欲しいが、社交辞令はしたくない。でも「いいね」を押すと「いいね」返しをされる。つまり私の絵は所詮社交辞令で「いいね」されるようなクオリティなのだ。

書いてて虚しくなってきた。

絵は挨拶じゃないんだから、社交辞令的に評価されるべきものではないと思うんだな。そしたら「いいね」なんて、もらえないかもしれないけど、やっぱり挨拶代わりの「いいね」なんて私は求めてないのだ。

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楽しみを与えてくれたもの

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昔は好きだったのに、今は微塵も興味を持てないというものがある。私は実は社会人になってからコンシューマゲームへの熱が薄れてしまって、面白くないと思いながらゲーム会社でゲームを作ってた。

昔は休みの日に必ず起動していたものだけど、今ではPlayStationは“子ども時代の名残り”としてもう何年も部屋の片隅で埃を被っている。注ぎ込んだお金の事を考えると笑えない…。私のゲーム歴はポポロクロイス物語に始まり、アサシンクリードに終わった。凄い趣向の遷移だな、と自分でも思う。

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印象に残っているゲームの1つに【ギルティギア】という格闘ゲームがあって、最近何気なくそのサウンドトラックを聴いたのだけれど、「そういえばあの頃の自分はゲーム好きだったなぁ」なんて思い出してちょっと切なくなった。

格闘ゲーム自体は苦手で基本的にプレイしなかったのだけれど、ギルティギアだけは例外だった。汗臭い格ゲーが世の中に乱立する中でこのゲームはキャラクターが飛び抜けて魅力的だった。デザイナーはギルティギアの生みの親と呼ばれる石渡大輔。迷いのない線で描かれた躍動感あるイラストに私は心酔してたっけ。その勢いのあるタッチが猛烈に格好良くて、昔はよく真似をしたものだ。全然描けなかったけど。

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彼らのようなクリエイターになりたい、ユーザーを魅了するようなモノづくりをしたい…と思ったのがCGデザイナーの道に進んだ理由の1つ。きっかけは厳密に言うとファイナルファンタジーだったんけど、私はポポロクロイスも好きだったし、ギルティギアも好きだった。魅力的な作品は数多くあって、そういうモノを作れる人になりたかった。

一方でこの頃から私は『人から承認を得られなければ意味がない』とも思っていて、よく妄想していたのが『大手企業に勤務する一流のデザイナーな自分』の姿だった。漠然としたイメージだったけど、厄介な事に自分の中でこれがかなりのウェイトを占めていた。笑っちゃうけど当時は真剣だった。そして就活の段になって、
「どの会社受けようか、有名な会社ばっかりでよりどりみどりだわ〜〜」
と、呑気なことばかり考えてた。

アークシステムワークス』は先述したギルティギアを開発したゲーム会社で、私はここを受けることも出来たのだけど、何故だか就活中は眼中に無かった。多分だけど、中小企業で仕事をする自分の姿がイメージ出来なかったんだと思う。東京まで出るなら【大手一択】だったし、「有名企業で仕事するんだ」という強固なイメージが、私を会社というブランドに拘らせた。

結局それほど数は受けなかったんだけど、結論から言うと当初志望していた企業は綺麗に全部落ちた。大手ならどこでもいいと思って、『数打ちゃ当たる』という考え方で臨んでいたので当然である。就活というものを私はかなり舐めていた。

当時から考え方が甘くて、自分に根拠のない自信を持っていたものだから、志望した会社に落ちた時はそりゃあ落ち込んだ。中々立ち直れなくて一時期は就活もままならなかったけど、卒業までのタイムリミットが迫っていた事もあって、それからは身の丈に合った会社に絞ってエントリーするようになった。理想と現実の乖離を痛感した。

その後、2社からほぼ同時期に内定をもらったけれど、片方は東京の本社配属になってしまったので辞退した。その頃の私はすっかり意気消沈していて、とても東京で1人でやっていけるような自信はなかったのだ。結局地元に支社を構えるもう片方の企業に就職した。まぁ、その就職先も入社後数年で閉鎖しましたけど。


今思うと、ゲームって芸術の集大成だよなと思う。
サウンドと、ビジュアルと、ストーリー。
私はクラシックも純文学も美術もそれ程好きではないけど、ゲームという枠組みの中だからこそ興味が持てたものは沢山ある。

私がアントニオガウディの建築に興味を持ったのはそれがデビルメイクライのステージ背景のモチーフだったからだし、三國無双をプレイするまで織田信長の事はチョンマゲくらいにしか思ってなかった。私の知識はゲームに始まったと言っても過言ではないけど、これがなければ私はデザイナーにはなれなかったかもしれない。とっつきにくい情報もゲームという媒体を介せば楽しむ事が出来るのだから、これは本当に偉大な娯楽だと思う。

 

あーあ、あの頃の私の『好き』『楽しい』という気持ちは一体何処へ行ってしまったんだろう。社会人になってから大きな壁にぶち当たって、それが自分が人とは違うという違和感を決定的にしたのだけれど、困難な現実に直面するほど、それは数少ない楽しみや夢をすり減らして行くように感じられた。鬱の作用か発達障害のせいなのか知らないけど、今の私は悲観に満ちていて何に対しても前ほど興味を持てない。

笑えないのはこんな状態になった今も、メンタルが浮上するたび、やりたい事よりも真っ先に承認欲求が顔を出すという事。例えば私がブログを更新するのはランキングが気になって仕方が無いからなんだけど、正直ブログ更新にはほとほと疲れている。そんなにしてまで認められたいのかと、我ながら呆れる。

気持ちが空っぽなまま、絵を描いたり文章を書いたりして毎日を過ごしている。【楽しい】って何だっけとか考えながら。死にたいなぁと思いながら、承認を求める矛盾が私を生きづらくしている。

 

ギルティギアサウンドトラックを聴きながら、ゲームの世界に没頭していた昔の事を思い出した。また何かやってみようかなと考えているけど、
「そんな事してなんか意味あるの?」
と、ネガティブな私が問いかけてくる。私は純粋に楽しみたいだけなのに、私の頭の中の哲学者がそれを妨害する。ただ、その哲学者も大変に頭が悪いので、ぐるぐるといろんな事を考えているだけで結局どうするのがベストなのかという答えは一向に出て来ないわけで…。

 

「意味なんか考えるな」とはユースケサンタマリアの言葉だった気がするけど、やってみたら「楽しい」と思える事は、意外とまだあるのかもしれないなぁ…と思って、PlayStation4を買おうかどうしようかずっと迷ってる。高いし。

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アートワークス・オブ・ギルティギア ゼクス 2000-2007

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どうか長生きしておくれ

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こんな可愛い子にも弱点があります。フサフサの毛並み故なのか、たまに尻にウンコが付着しているのです。それを床にポトンと落とし、それを父親が踏みつけるという事件が多発しています。でも許しちゃう。可愛いから。

 

多分2010年から飼い始めたと思うんだけど、それが正しければこの子は今年で9歳になる。びっくり仰天である。

ここまでくると流石にいつか来る別れを意識せずにはいられない…。その時を思い浮かべては今から胸がぎゅーっと締め付けられる思いになる。

どうか長生きしてほしいと思う今日この頃。

 

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